壊れし泉の井戸新書判120ページ

試し読み

大坪命樹の第一歌集です。

大坪は、角田光代氏が源氏物語を訳したので、興味を持ってこれを買って読み始めたところ、その平安時代の短歌の世界に魅了されました。その頃、歌人の黒瀬珂瀾氏から奇しくも歌会のお誘いがあり、海市歌会にしばらく参加しつつ、歌を歌い始めました。会を辞めた後も、自分で我流の短歌を詠み、三年くらい経ちました。

この歌集には、その初期の頃からの短歌236首を選び、収載しました。妻・藍崎万里子との間の相聞歌が多いため、こころ温まるような優しい歌が多く、言葉選びの詩的感覚はそれほど鋭くはありませんが、日本的な情緒の溢れるのどかさが楽しめます。

反面、戦争反対の訴えを叩き付けたような強い短歌もあり、このような不穏な世界情勢の中、作者が国民に届けたい思いの込められた祈りが歌われていたりもします。そのようなメッセージ性の強いものも、作者の時代に残したかった生声なのです。

表紙は、大坪命樹みずからが描いた妻の若き日の肖像です。油絵の技術も心得も何もない作者の素人絵画ではありますが、表紙にしたのは、この短歌が妻に対して詠んだものが多いためでもあります。

小説とは異なって、作者は短歌を生活の一場面の切り取りとして、写実的に描き出しました。普段、綴られることのない、作家の日常の中の美しい情景のカットが、この中には多く鏤められています。

ほかの小説にはない短歌の作る大坪独特の情緒ある世界を、ぜひ味わってみてください。(大坪命樹)